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レッドソックスでの戦績は以下のとおりです。
2007年4月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーリーグの公式戦初先発。気温2度という厳しい寒さのカウフマン・スタジアムで、最速95マイル(約153キロ)の速球と多彩な変化球を武器に、7回までをソロホームランによる1失点のみに抑え、10奪三振で初勝利を挙げた。
5月第3週にはア・リーグ週間MVPを受賞。レギュラーシーズン最後の登板となった9月28日の対ミネソタ・ツインズ戦では、石井一久の14勝を上回り、日本の新人投手としては史上最多となる15勝目(12敗)を挙げた。
プレーオフでは10月5日、ア・リーグのディビジョンシリーズでロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとの第2戦に初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかった。クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、1勝1敗で迎えた10月15日の第3戦に登板したが、4回2/3を4失点で降板し、敗戦投手となった。10月21日の最7戦で松坂が再び登板し、5回を2失点。松坂は日本人メジャーリーガー初のプレーオフ勝利投手となった。
西武時代の先輩である松井稼頭央の所属するコロラド・ロッキーズとのワールドシリーズでは、2勝0敗で迎えた10月27日の第3戦で登板。
自らのタイムリーヒットなどもあり(バッティングで後述)、6点の援護を得て、5回1/3を2失点。
松坂は日本人メジャーリーガー初のワールドシリーズ勝利投手となった。レッドソックスは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たし、松坂はチャンピオンリングを手にした。
1試合の平均球数は108.8球で、これはメジャーリーグでトップとなる数字だった。
2008年3月25日に東京ドームで行われたオークランド・アスレチックスとの開幕戦に先発し、5回2失点で勝敗はつかず、チームはサヨナラ勝ちした。その後、無傷の8連勝を記録するも、5月27日のシアトル・マリナーズ戦で右肩回旋筋腱板の張りを訴え、故障者リスト入り。
6月21日に復帰したものの、オールスター初出場はならなかった。
8月14日の対レンジャーズ戦を7回無失点に抑え、14勝2敗という成績にMLB公式サイトのトップにてCY-Kと、愛称のDice-Kに歴史的名投手サイ・ヤングの名前をかけてもらうという名誉を受けた。
9月21日のトロント・ブルージェイズ戦では、野茂英雄が3度記録した16勝を上回り、日本人最多となる18勝目を挙げた。
前年と同じ顔合わせとなった10月3日のディビジョンシリーズ第2戦・エンゼルス戦では、5回3失点で勝敗はつかず、チームは9回に勝ち越して勝利した。
10月10日のリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦・タンパベイ・レイズ戦では7回0/3を無失点に抑えて勝利投手となった。
10月16日の第5戦では、4回0/3を5失点で降板したが、チームは7回2死まで0-7からの大逆転でサヨナラ勝ち。
しかし、チームはリーグ優勝を逃して2年目のシーズンを終えた。
この年は前年に比べ与四球が増えたものの、レギュラーシーズンの被打率はリーグ1位の低さを誇り、走者が貯まると更に下がる。
プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あったが、押し出しと犠飛こそあったものの、全てノーヒットに抑えた。
またアウェイでの試合は無敗で.8620という勝率を記録しメジャーリーグ歴代勝率25位にランクインした。
サイヤング賞の投票では4位となった。
参考:wikipedia
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参考:wikipedia
田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は、日本の元プロ野球選手(捕手・一塁手)・プロ野球監督、野球解説者。株式会社タブチエンタープライズ所属。ニックネームは「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」。
現役時代は阪神の主砲として活躍し、1979年に移籍した西武では2年連続リーグ優勝・日本一に貢献した。引退後はダイエーの監督、阪神のコーチを歴任。現在はTBSの解説者(キャッチフレーズは「天才ホームランアーチスト」)&北京五輪野球日本代表ヘッド兼打撃コーチ。
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法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)、法政大学経済学部に入学。大学時代は山本浩二(のちに広島)、富田勝(のちに南海、巨人、日本ハム、中日)と共に『法政三羽烏』として騒がれ、3年生の春にそれまでのリーグ通算記録8本塁打を早々と更新、通算で22本塁打まで伸ばし、1997年に高橋由伸(慶大→巨人)に破られるまでリーグ記録だった。
1969年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。強肩、強打の捕手として正捕手に正着。22本塁打を放ち、新人王を獲得した。しかし、2年目の1970年8月26日の対広島戦で、外木場義郎から耳への死球を受け昏倒。田淵の体質がこれで全て変わってしまったと言われるほど大きな怪我で翌年まで尾を引いた。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、1972年には34本塁打を放つ大活躍。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。しかし、この頃から入団当時「もやし」「キリン」のあだ名を持つほどやせていた体型が急に太りだした。
1975年には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルに輝く。
しかし、1978年オフ、身売りして福岡から埼玉県所沢市へ移転した西武の顔としてトレード入団(阪神・田淵、古沢憲司⇔クラウン・真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史の2対4の大型トレード成立。詳細は「世紀のトレード」を参照)。トレード自体はすったもんだの末行われたものだったが、根本陸夫・広岡達朗監督の下で体を鍛え直し、1980年に5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録。同時に一塁手に転向し、指名打者でも活躍。1982年・1983年には阪神時代なしえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1984年限りで現役引退。
通算本塁打474本は歴代10位(2007年末現在)の記録であるが、田淵の長距離打者としての特筆すべき点は、本塁打一本を打つのに要する打数の少なさである。通算300本塁打以上を記録した31選手中(2007年末現在)、田淵の記録は王貞治に次ぐものである。
参考:wikipedia
高木 豊(たかぎ ゆたか、1958年10月22日 - )は、山口県防府市生まれのプロ野球選手。愛称は「ユタカ」。これは、入団した横浜大洋ホエールズにもう一人の高木(高木由一)がいたためである。
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多々良学園高校から中央大学を経て1980年ドラフト3位で大洋に入団。俊足、鉄壁の守備で2年目より1番二塁手のレギュラーに定着。1983年から4年連続で打率3割をマーク。1984年に56盗塁で盗塁王に輝く。近藤貞雄が監督に就任した1985年には、同じく俊足の加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。また同年より山下大輔の二塁手コンバートにより、遊撃手にコンバートされる。しかし、高橋雅裕の遊撃手定着に伴い、1987年からは元の二塁手に戻った。
1990年には打率.323でリーグ2位、1992年の対読売ジャイアンツ戦において、通算300盗塁を達成した。この際、一度はアウトの判定を受けたが、野手(この時は遊撃の上田和明)がボールを落としており、抗議した結果判定がセーフに覆り、セーフを確認して、マスコットガールから花束を受け取ると言う何とも味の悪い達成となってしまった。このとき、二塁塁審へ必死の形相で抗議した様子がフジテレビ系『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などで取り上げられている。
1993年には、三塁手にコンバートされたが、ロバート・ローズの入団及び石井琢朗、進藤達哉の成長により一塁手にコンバートされる。長く中心選手として活躍したが、同年オフ、読売ジャイアンツから駒田徳広がFA移籍したことに伴う大量解雇の煽りを受け、なんと130試合フル出場しながら屋鋪、山崎賢一らと共に突然解雇となり日本ハムファイターズに移籍。移籍後は1年限りで引退した。しかし、前述の解雇は駒田獲得のためだけでなく、高木が毎年の契約更改で必ず決裂し、前年は年俸調停にまでもつれこんでいることも大きく影響していると思われる。
1995年よりフジテレビ解説者に就任。タレント活動においてはサンミュージックとも契約した。2001年に横浜の内野守備走塁コーチに就任するが、1年で辞任。再びフジテレビ解説者となり現在に至る。「熱チュー!プロ野球2004」のベンチ解説などのかたわら、2003年より長嶋茂雄が監督を務めるアテネオリンピック野球の代表チーム内野守備走塁コーチを務める。2005年1月より男性用かつらメーカー・アートネイチャー「ヘア・フォーライフ」のCMキャラクターを務め、出演するテレビCMが放送されている。またフジテレビのスポーツニュース番組『すぽると!』にも解説者として出演中。
参考:wikipedia
衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - )は、京都府京都市東山区出身の元プロ野球選手。現在は野球解説者である。
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1964年、平安高校3年時、春のセンバツと夏の甲子園に捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。翌1965年、広島カープに入団。白石勝巳監督の方針で内野手に転向し、1968年から一塁手として一軍レギュラーに定着。1975年にはジョー・ルーツ監督により、三塁手にコンバートされる。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセ・リーグ制覇に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、現在でもオールスター屈指の名場面として語り草になっている。その後も赤ヘルの主砲として、1976年には盗塁王、1984年には打点王を獲得、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。1970年代後半〜80年代の広島黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である。
赤ヘル時代以前につけていた背番号28から、ファンの間では『鉄人』(横山光輝の漫画『鉄人28号』より)の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも飛び抜けて体が頑丈であった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、大相撲の幕内力士青葉城とその頑丈さを並び賞されたこともある。1970年10月19日の対読売ジャイアンツ戦から始まった連続試合出場記録は、1987年6月13日の対中日ドラゴンズ戦で2131試合に到達、それまでルー・ゲーリッグ(ニューヨーク・ヤンキース)が保持していた世界記録を更新し、以降10月22日の現役引退まで2215試合連続出場を果たした。同年、国民栄誉賞を授与される。その功績を讃え、衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっている。
同時代のチームメイトに山本浩二という日本野球史上屈指の強打者がおり、引退後も「鉄人」のイメージが付きまとっているためか、現役当時から現在に至るまで、連続試合出場記録以外の話題が上ることが少ない。しかし、通算本塁打504本(歴代7位)、通算打点1448(歴代10位)、通算安打2543本(歴代5位)と、長期にわたって安定した高い打撃成績を残しており、衣笠もまた山本と同じく、史上屈指の強打者であったことが窺える。
現在はTBS野球解説者、朝日新聞嘱託で運動面のコラムを受け持つ他、日本テレビ系「午後は○○おもいッきりテレビ」のゲストコメンテーターなど、タレントとしても活躍している。また、ソニーの人気PC・VAIOのユーザーであり、「VAIO OWNERS:達人の選択」でVAIO愛好家としても紹介されている。
現役時代から現在に至るまで、広島県呉市にある味噌メーカー「ますやみそ」のCMキャラクターを務めている。また、現役晩年にはアートネイチャーのCMにも登場していた。
アフリカ系アメリカ人と日本人との混血である。長男・友章は俳優として活躍している。
参考:wikipedia
金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手。監督・野球解説者・評論家。左投げ左打ち。愛称は「カネやん」、あるいは「カネさん」、「金田天皇」。
現役時代は国鉄スワローズ、読売ジャイアンツで活躍し、引退後はロッテオリオンズの監督をつとめた。日本球界唯一の400勝投手。現在は野球評論家。名球会(株式会社日本プロ野球名球会)会長(代表幹事)。経営する株式会社カネダ企画内に名球会事務局がある。
実弟は同じ国鉄に在籍した金田高義と金田星雄、東映・日拓、ロッテ、広島で活躍した金田留広。息子は俳優の金田賢一。甥に広島、日本ハム、巨人で活躍した金石昭人がいる。
来歴・人物
享栄商業高等学校を中退して1950年途中に国鉄に入団。長身から投げおろす快速球と鋭いドロップを武器に翌1951年から14年連続20勝を記録。
1951年9月5日対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成(18歳1ヶ月での達成は史上最年少記録)。1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。
1958年の開幕戦では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪う。同年通算200勝達成。1962年9月5日通算3,509奪三振の世界記録(当時)を達成。
1965年、B級14年選手制度を行使して東京読売巨人軍に移籍し、V9に貢献。
1969年10月10日、シーズン最終戦・対中日戦で球界初の通算400勝を達成したのを置き土産に現役を引退した。また、巨人での背番号「34」は永久欠番に指定された。
私生活では結婚を二度・離婚一度を経験。初妻榎本美佐江とは1955年3月から同棲生活に入り、榎本の芸能活動引退、金田の帰化・日本国籍取得を経て1960年に正式に結婚。しかし榎本の存在がありながら宝塚歌劇団卒業生・雅章子との関係が生じたうえ金田と雅の間に1961年賢一が生まれる(金田-榎本の間に子はない)事態が発生。1963年8月、榎本と正式離婚を経て賢一を伴った雅と再婚。なお金田-雅の間には賢一の他に女児二人があることを公表している。うち一人は1980年代の一時期、洗顔料のCM(父娘共演もした)に出演していた。
引退後は日本テレビおよびニッポン放送の解説者(1979年ごろ、フジテレビジョンプロ野球ニュースの解説者としても出演していた)。1973年から1978年、1990年から1991年にロッテ監督。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。なお、彼が就任してから千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。ロッテ監督時代の1978年に名球会を設立。代表幹事を務めている。1988年野球殿堂入り。金田が入団した当時の国鉄はチーム力が弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦が3度、20敗以上6度、入団以来15年連続で2桁敗戦、通算267敗を喫している。この敗戦数を超える勝利数を毎年のように稼ぎ出していた金田の実力は想像に難くない。(金田在籍中の国鉄(1950〜1964年)は、3位が1回あるだけで他のシーズンは全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。)
投手として出場して36本塁打を記録したのも日本記録(他に代打として2本塁打)。二リーグ制以後の選手としては、野手転向した選手を除くと、投手として唯一1,000試合出場を達成している(一リーグ制時代を含むと野口二郎投手(517試合登板で237勝、野手や代打を含め1,098試合出場)がいるほか、藤村富美男選手も投手として一定の実績があるため)。このように打者としても一流だった金田が一番強いと思った投手は権藤正利で、彼のカーブは凄かったと語っている。
参考:wikipedia
長嶋 一茂(ながしま かずしげ、1966年1月26日 - )は、元プロ野球選手(内野手)。現在は株式会社読売巨人軍球団代表特別補佐、タレント、俳優、スポーツキャスター、野球評論家。ナガシマ企画所属。旧表記:「長島」。東京都大田区田園調布出身。妻は事務所のマネージャーで、双子の娘がいる。
父は読売ジャイアンツ終身名誉監督、アテネオリンピック野球日本代表監督の長嶋茂雄。4人兄弟の長男で、弟はレーシングドライバーの長嶋正興、末妹はキャスターの長嶋三奈。
母方の先祖に相撲の力士(六代目柏戸。最高位は前頭二枚目)がいると、テレビ東京の番組で自ら語っていた。
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立教大学のOBであることから、小学校からの立教ボーイであると思われがちだが、実際は立教に入ったのは高校から。田園調布中学校、群馬県吾妻郡六合村にある白根開善学校中等部で中学時代を過ごした。高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格したが「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現・立教新座高等学校)に進学した。
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